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卓越性と多様性

 「作物生産」、「生産・環境生物学」、「生産生態学」…「生産」(production)という時、量が重要であることが前提だ。農学では「量」の多い少ないを重要事とする。それは実際的に考え生きていく際に、至極当然のことである。求められる量を少なくとも達成したいし、すばらしく多く生産すれば、すばらしいと世の称賛を受ける。「卓越」とは量的な概念だ。多くの人は5本とか6本とか7本を生み出すが、あの人は50本生み出した、スゴイ!(=卓越)ということになる。

 一方、「生物多様性」のように「多様性」(diversity)という時、存在していることを基礎にしていて、存在を肯定している。機能としての「生産」は問題にしない。

 以前、functional diveristy(機能的な多様性)という意味の本を見かけたことがあった。多様性は、生産にもポジティブな意味がある、という主張だったが、そういう側面を説明することは可能ではあろう。しかし多様性は、基本的には、卓越性に縛られない、別個の考え方である。

 経験的にいうと、人間は何かを作り出そうとする性質を持っていて、卓越性を志向する性質を持っている。その度合いが強くなると、多様性は減少していく。卓越性は、いわば、効率の良い大きな生産工場のようなものだが、それを建てられ稼働できる場所(対象)は、限られているように思う。大きな工場は建てられない場所(対象)がある。

 卓越性と多様性を、東京大学は重視している。これは知恵と思慮であり、真理を探究する器として喜ばしいことだ。前者を掲げるなら、後者も配慮することが重要だろう。

農学との対話1

石井龍一先生(故人)の作物学研究室で修士課程の時、「農学とは何か」という院ゼミをして、探求をしていた。育種学研究室の職員をされていた高木俊江さんたちが勉強会に誘ってくた。

深井周先生(クイーンズランド大学名誉教授)のもとで、子実用ソルガムの窒素利用の品種間差について、博士課程の研究をしながら、栽培試験、取りまとめ、論文執筆など、農学の中の作物生理学の研究のやり方を指導いただいた。学位論文を提出して、「緑の革命」の拠点機関である国際稲研究所(IRRI)で、プロジェクト研究員として3年弱、Len Wade博士の下で、天水稲の改良の研究をやらせてもらった。IRRIではポット試験しかしなかったが、Wadeさんのタイ、バングラデシュ、インドの天水稲コンソーシウムを回らせてもらった。

タイの有機農業を支援するために日本から派遣されていた特農家、村上真平さんの農園を訪ねて、彼と話をする機会があったが、どうしてなのか、話がかみ合わなかった。IRRIに来て、熱帯の稲作の改良のために研究をしている自分と、有機農業をタイに展開しようとされていた村上さんと、どうして話が弾まなかったのか?この思い出は、農学の社会の中での相対的なポジションを理解していくうえで貴重な体験となった。その後私は、1999年に東京大学の教員として就職をして、依頼大学人として歩んできたが、社会的公正さを含めた仕方で、大学院講義「サスティナビリティと農学」を開講した。多様な構成員から成る社会の中での農学の在り方を考えて、よりよい展望を打ち出すことも、また大学人の責務と特権だろう。

同じくものづくりをする工学と比べて、自然と生物資源とをより直接的に扱う農学では、自然環境の多様性や、生物との関わり方における自由度のために、比類のない多様な様相を呈する。また、自然の一部である自分自身がどのような生産活動、消費活動をデザインするか、問い掛けられる。

多様性は、自然環境だけでなく、歴史的な変遷、文化や民族、人種も含むし、経済力の違いによる多様性も含まれる。農学の対象の多様性を、力と数の論理で整理するのではなく、公正さを基礎に認めてゆくのであれば、現代社会で問題となっている、「分断」の和解と修復に、農学的な洞察が、大きな変革をもたらすことが期待できる。

知識体系だけでなく、農学の心を伝えたい。農学は3人称として記述されるだけでなく、2人称、1人称で描ける部分がある。もう1つの人称もあるはずだ。農学を比喩的に、庭の手入れをして、畑に播き刈り入れをして、都に仕入れをする営みとして描くこともできるかもしれない。

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